大岩と大月

 8月第1週末。毎年,この土曜または日曜に長野県塩尻市の高ボッチ高原において草競馬が行われます。今年は4日の日曜日。
 で,東京から南信州に向かうには,山梨県を通過することになります。てなわけで,せっかくなので山梨県に住む知り合いにメールしたところ,大月に住む友人から返事が来たので,大月経由塩尻行きの旅程が組まれることとなりました。

 待ち合わせは午後4時だったのですが,せっかくなので若干早めに大月に行って岩殿山に登ってしまうことにしました。岩殿山は小山田信茂の居城としてライトな歴史マニアには広く知られているのではないかと思います。この岩殿山,検索すると,歴史マニアだけでなく登山愛好家の方々にもそこそこ広く知られているようで,特に2カ所の鎖場があったりして,大月駅から徒歩圏内にもかかわらずそこそこ楽しめる登山コースとしての地位を確立しているようです。
 登山コースとして楽しいのは稚児落しや兜岩方向のようなのですが,時間的にも体力的にもそっちにまわる余裕はなく,今回は単純に登山道が整備されているコースを往復することにしました。

 さて,大月駅に降り立ちました。そして,そこで,重要な事実に気付いたのです。
 デジカメにSDカードが入ってない!!
 ……ああ,ノーパソにSDを突っ込んでそのままきたのを思い出しました。なんたる失態。メキシコでやらかして以来,注意はしてたんだがなあ。そしてあわせて電池の予備も持ってきてないことに気付きました。う〜ん,だめすぎる。とりあえず,大月駅まわりには家電量販店はなさそうなので,2ブロックほど先に見えたデイリーストアに向かいます。すると,斜め前方にカメラ店が見えたので,ここでSDを買うことができました。はあ,なにやってんだか。ここでエネループ(…はもうないのか)も買うべきだったんだけど,なぜかカメラ屋さんについたときには完全に電池のことを忘れてたんだよなあ。

 とまあ,もともとそんなに持ち時間が無いのに,無駄に時間を使ってしまいました。小走りで登山口に向かいます。道中,というか大月駅を出てからすぐに,岩殿山の大きな鏡岩が見えております。この上を攻めるってのは精神的にかなりきついものがあります。というか,この岩の上を攻めるなんて,見上げるだけで心が折れます。絶望という言葉しか浮かんできません。戦国当時の気温が今とどのくらい違うのかは分かりませんし,このあたりで戦争するなら基本的には農閑期の秋以降だったんだろうとは推測しますが,それにしたって重いもの持って命がけで乗り込むんだからもう嫌です。


 でもまあ,上を見上げずに平地を歩いているぶんには特に疲れません。途中,桂川をわたりました。(橋から見ている分には)きれいな川ですね。
 そんなこんなで,登山口に到着であります。そもそも大月に寄ることが決まったのが2日前だった(2日前に大月の友人から電話をもらった)ので,岩殿山についても特に調べておりませんでした。そんなわけで,ここにかつては円通寺という大きなお寺があったってことも,現地の看板で知りました。もう少し涼しくて,体力に余裕があれば円通寺の遺構や現存するお堂なんかも合わせて見に行きたいところですが…。ちなみに,円通寺についてはここが非常に詳しいですね。勉強になります。

桂川 ここも日蓮が強いんでしょうか ふれあいの館の宣伝 当然往時はこんな冠木門など
無かったんでしょうが,
史実に反する門でも冠木門はなぜか
そんなに場違い感がないですね
解説
かつては門前町だったのか…

 さて,ネット上にあまたある登山記などを拝見すると,本丸までの登山コースは舗装され,整備されていて非常に楽なようです。そして,本丸から大手方向,稚児落しや兜岩方向こそが本当の登山を楽しめる場所のようです。ですが,上に書いたとおり,時間的にも体力的にも余裕が無いので往復コースを進むことにしたのであります。
 だけんども,しかし(←今でもかなざわいっせいはこれを使ってるのでしょうか)。
 一体どこが楽なのよ。日頃,パドックと馬場の往復くらいしか運動しない人間としては,序盤の舗装&階段コースですら汗だくでひぃひぃいうような地獄でした。この日はそこまで暑くなかった(その分湿度は高かったと思うけど)んだけどなあ。いやはや,ほんと,死ぬ思いでした。やはり夏の2〜4時に山城を攻めるってのは無謀でした。ひ〜こらひ〜こらばひんばひん。
 ふれあい館の工事をしてる方々も,この時間は完全に休憩モードだったしなあ(この曲輪には櫓台のようなスペースがあるんですが,そこでおっさんが寝てた)。ほんと,こんな時間に登山なんてしちゃだめですね。
 それと,残念だったのが,天気がすかっとしていなかったこと。本来だったら,ここから富士山が見えるはずなんだよなー。やっぱり空気が綺麗な冬に登らないとダメなんでしょうね。残念。東京にいると,「富士山が見えない」ってのはある意味当たり前のことなんだけれど,山梨や静岡にいても「富士山が見えない」ことがあるってのは実は個人的にはかなり意外だったのでした。

富士山は見えず
日差しがないのは体力的には
助かるんだけど,やはり富士山を見たい…
小さなおやしろがありました こんな道 やはり富士山は見えず
手前の看板は「岩殿山城」の
どれかの文字だと思われます

佐和山でも似たような看板を
見た記憶があるな
この石は自然のものなんでしょうか ふれあいの館への門
これも特に何かの門を
意識したわけでは無さそうですが
(強いて言うなれば円通寺の山門か?)
城跡案内図 山蚕の繭 早々に熊イノシシ出没注意の
看板が登場しました
これらの岩は自然岩なのでしょうか… 鏡岩を横から この手の石って
なんていうんだっけ

既に高校の地学知識は
頭から消えております

 そんなわけで,本当に汗だくになりながら,到着しました本日のハイライト,揚城戸跡。おお,これは素晴らしい。なんという岩の威圧感。この先何が待ち受けているんだろう,という恐怖をかき立てるのに十分です。いやぁ,まさに天然の要害とはこのこと。いやぁ,疲れも多少は吹っ飛びます(「完全に吹っ飛びました!」と書けないところがつらい)。
 いやですね,ここまで登ってきて,ほんとバテてたのです。で,登山道は途中から鏡岩を横目にすることもなくなりますので(木と葉が邪魔だってのもある。やはり山城は夏に登ってはいけないな),今自分が山の何合目にいるのかがさっぱりわからんのです。これは精神力を消耗させます。で,攻め込んできた的に「現在8合目,あとちょっと。頑張れ!」などと教えてあげるシステムは当時も存在しなかったでしょうから,これは攻城側としてはけっこうきつかったんじゃないかと思います。実際このルートで岩殿山城を攻めたことがあったのかは知らんけど。

揚城戸門跡 近づく さらに近づく 右手の上方を見上げる
何が落ちてくるか分かったもんじゃないな
防御側の視点

 結論からいうと,揚城戸門を抜けると,ゴールはすぐそこでした。正確には,郭群がすぐそこだった,という表現の方がいいのかもしれません。いずれにしても,揚城戸門を抜けると,左手に番所跡が登場(門があるんだから番所があるのは当たり前っちゃ当たり前)。
 そして,さらに進むと左手に巨岩を吹っ飛ばした跡地。かつては物見櫓とも修験道の修行の地ともいわれている場所のようですが,今では昔からこうなっていた曲輪跡にしか見えません。


 そして,馬屋跡のすぐ先に登場するのが,岩殿山山頂です。ああ,疲れた。本当に疲れた。
 事前準備が皆無だったため,ここがスカイツリーと同じ標高だってことは知りませんでした。東京タワーは階段でのぼれるって話をどこかで聞きましたが,スカイツリーはどうなんでしょうか。死んでも歩いてのぼりたくないな。
 それにしても,空気がすかっとしていればここから富士山が見えたんだろうになあ。残念。

 また,びっくりしたのは,ここは山頂であり,本丸ではないということ。まだ先があるのか……。時間的にも実は結構一杯一杯だったので,本丸を目指すかちょっと思案しましたが,とりあえず山頂での休憩タイムを削って本丸方向に向かうことにしました。
 ここが山頂ってことは,いうまでもないことですが,ここから下にくだっていくことになります。てことは,またのぼるのか…。ぐへぇ。

馬屋跡
右手に進むと山頂
富士山は見えません… 市街地では花火?があがってました
多分この夜の花火の予行かと
山頂からの眺め

 そんなわけで,山頂部(現地ではここが三の丸だと思ってたんですが,違ってた。なんに使われてたのか分からんな。隅っこの方に「兵舎」という看板が立ってたけど,この曲輪全体が兵舎だったのかな)から馬場を経て,一気に本丸へ。ああ,そういえば本丸には電波塔が建ってるってのをどこかで見たなあ。
 そんなわけで,電波塔のある本丸部は開放感もなく,本丸まできたという達成感も特になし。
 そして,行けるところまで行こう,というわけで,本丸の先にある空堀まで行ってみました。本丸から「空堀」の看板までは若干不安になる下り道でしたが,まあ山城だしね。山城の常として,夏場は木が生い茂って空堀がどういうかたちをしているのか分かりづらいってことがあります。まあ,これも仕方がない。

兵舎 山頂部から馬場方向 馬場跡 本丸方向 倉屋敷跡 本丸電波塔
本丸からの眺め 物見櫓が3カ所にあったのか おりていくと空堀 あまり掘ったあとがはっきりしないな 本丸を見上げる

 で,時間的にも体力的にも,さらには山の雰囲気的にも空堀より先に行くのはちょっと厳しそうなので,ここで折り返すことにしました。馬冷やし池や洞窟なんかにも興味はあったんですが,まあ短時間で見つけられる自信はありませんでした。
 そういえば,山城につきものの井戸跡(別に現役でもいいんだけど)がなかったな。多分池が実質的に井戸の役割だったんじゃないかと思います。が,他方で岩盤を見る限り粘土みたいにうまく水をため込んでくれなさそうですね。長期間の籠城向けの城ではなく,やはり物見や関東への押さえの意味の方が強かったのかもしれませんね。このあたりはちゃんと歴史書読まないと分からんな。

 そんなわけで,16時が待ち合わせの時間だったので城を駆け下ります。調子に乗ると足をくじきそうなので,駆け下りるといってもたかがしれてるのが残念なところです。
 で,降りる途中で友人も若干遅刻気味なことが判明し,落ち着くことができました。
 そういえば,ここはかつては修験道の行者に使われていた場所でもあったようです。修験道というと,白い服を着た山伏的な人がいろいろハードな山道を進んでいったり滝に打たれたり断食したりしてるイメージなんですが,実際はどうなんでしょうか。明治初期の禁令まではそれなりに修験道はあったっていう知識なんですが,あってるのかな。

ここで右に進むと地獄が待っているらしい あらためて鏡岩。ぬりかべが目の前に登場したらこんな感じなのだろうか 桂川

 さて,この日大月ではかがり火祭りというお祭りが行われており,駅前を筆頭にあちこちで盛り上がっていました。
 そんななか,友人と二人でぷらぷら。どうもメイン会場は駅前ではなく小学校だということなので,そっちに向かいます。その小学校の横の高校が友人の母校とのこと。
 このお祭り自体は阿波踊りからよさこいからフラダンスからなんでもありのお祭りで,まさに「市民祭り」でありました。
 そんな市民祭りに,友人の奥様とお子様が合流。どうもお子様方はお祭りデビューだったようです。自分が4歳だったころ,お祭りって行ったかなあ。おぼろげに,赤穂で行った記憶があるんだが,あれは何歳だったんだろうか。個人的にあのお祭りは人生経験的に印象深いんだけれど(残念ながら浮いた話ではない)。

プログラム めでたい 小学校にて 陸橋から岩殿山を見る

 その後,スーパーボールとかき氷を手に入れてご満悦なお子様方と別れ,友人と2人旅。せっかくなので地のものを,とリクエストしたところ,友人のご実家でほうとうをごちそうになってしまいました。数週間前に甲府に行ったときは体調がすこぶる悪く,完食すらできなかったのでこれは非常に助かりました。それにしても,友人の家に突然乗り込んで食事をいただく,ってのは一体いつ以来だろうか。おそらく白馬の誰かの家以来だとは思うんだけど。ほうとうというのは,友人によると,基本的には家庭料理的なものであり,店で食べるようなものじゃないらしいんですね。で,家の庭でとれた野菜や旬の野菜を突っ込んで食べるもののようです。
 そして,びっくりしたのが馬刺し。友人のご実家に行く前に肉屋で「馬刺し○○円分」を注文し,それも合わせて食べたのでした。熊本の馬刺しとは異なり,赤身の馬刺しで,これをそのままにんにく醤油につけて食べる。これがとてもおいしい。いやぁ,しかもボリュームがあって安いんですね,これが。ほうとうや鳥モツよりもこの馬刺しこそが甲州のメイングルメだといってしまっていいんじゃなかろうか。それくらい,印象的でした。

 そんなわけで,終電で塩尻へ。

高ボッチへ

旅行記TOPテーマ別