三内丸山遺跡

 七戸の馬力大会に行きがてら,青森観光を敢行しました。
 青森は以前競輪場には行ったことがあり(青森市では競輪場にしか行ってないというべきかもしれんけど),今回は競輪開催日とも重ならなかったので,普通に観光をば。

 てことで,歴オタ見習い入門中の身として,どこかで聞いたことのある三内丸山遺跡に向かいます。縄文やそれ以前の遺跡については正直高校では真面目に勉強してないので(大学受験に出ないから),完全に記憶から消し飛んでおりまして,ぶっちゃけ持ってるまともな知識は登呂遺跡&吉野ヶ里遺跡が有名+ゴッドハンドがやらかした+三ヶ日人明石原人打製石器磨製石器程度のものであります。それにしても,小学校って何であんなに打製石器とか磨製石器が好きなんですかね。それでいて明治以降の歴史がぞんざいになるという。まあ,ある意味この時代は独自の文化を創り上げた時代で,アイデンティティに関わる時代だから大事なのは分かるのだが。

 そんなわけでして,まずは基本知識を学びます。なお,学んでいるのはこれを書いているまさに今であり,訪問前ではありません。よって,予習ではなく半復習です。
 てことで,教えてWikipedia。日本史時代区分表という非常に分かりやすい表を発見。こういうのありがたいっすね。で,縄文時代はこちら。アラフォーがアラテンだったころは,縄文時代はBC300くらいまでで弥生になってから稲作開始的な雑な知識でして,これが嘘っぱちであることはなんとなく聞いてました。なお,旧石器時代の記事はこちら。これによると,明石原人は原人ではなかったようです。残念。

 さて。そんな雑な知識しかないくせになにゆえ今更縄文時代なのかというと,まあ特に理由はないんだけれど,強いて言うなれば最近土偶の造形がなかなか独特でお気に入りなことでしょうか。まあ,大昔の人達がどういうものを作ったのかというのは普通に興味があるところではある。

 てことで,無事青森空港に到着し,車を借りてスタートです。なお,空港から出るところで間違えて弘前方面に曲がり,有料道路(空港から出るのは無料だが空港に入るのは有料)を回避した結果空港を大回りするルートを通る羽目になり,ただでさえ持ち時間が短いのにさらに時間をロスしました。
 んで。まあカーナビ様に助けられて無事到着。なんと,無料です。こんな場所無料でいいのか,と思ったら,どうもWikipediaを見る限り無料化するか有料化するかについては論争があったっぽいな。無料なら無料で,イギリスの博物館みたいに寄付をお願いしまくってもいい気がする。

到着 案内図 ジオラマ


 で。手持ち時間も長くないので,遺跡ツアーには参加せず,ただタイミングよくさんまるミュージアムのツアーが始まる感じだったので,すぐに外に出ずにこっちのガイドの開始を待つことにしました。
 で,さんまるミュージアムは2つに分かれておりまして,入って左側が比較的暗めの部屋に重要文化財クラスの展示品,入って右側が明るめの部屋に土器やなんやらがどかどかと展示されておりました。ツアーは主として左側の部屋の案内となります。
 んで,せっかく説明していただいたのにほとんどメモとってなかったことに今気付いた……。そうと知ってたならもっと記憶が残ってるうちに旅行記まとめたのだが。

 最初に出てくるこの柱,大型掘立柱建物跡から出土した柱で,うち1本は調査のために輪切りにし,うち1本は出土したそのままとのことでした。で,展示されているのは2本以上でありまして,これがなんだったか,ちゃんと説明を受けたのに忘れるというダメっぷりでありますよ。はぁやれやれ。

これがなんなのか
記憶から飛んだ
これは出土そのままのもののはず 切断面

 丸いひすい。なんとこれは糸魚川からのものらしい。糸魚川って糸魚川構造線の糸魚川しか知らないんですが,その糸魚川でいいんですよね。自分が知ってる糸魚川から青森までの距離ってかなりありますが,縄文時代に回り回ってそんなところからひすいが届いていたとは……。なんとも恐ろしい。なお,「ヒスイ製勾玉」でWikipediaの項目がありました。記念にリンク。
 なお,翡翠って英語でジェイドなんですね。ジェイドロバリーって翡翠泥棒だったのか。今頃知りました。

ひすい

 それから土器類や石器類。まあ特に石器に関しては,「どこかで見覚えのあるもの」以上のことをいえません。青森の特徴とかそういうのは一切分からず。ただ,水晶製石鏃って見た記憶がない気がする。真面目に日本史の資料集とか読んだ記憶が無いので分からんけど。
 で,縄文土器に関しても特徴だ何だと偉そうなことはいえません。でもまあやっぱり縄文土器ってなんともいえない特徴的な造形でいいですね。

人骨 縄文土器 水晶製石鏃 黒曜石製石槍 石皿・台石類
これで重文だから
あなどれない

 そして,なんとも印象的な板状土偶。顔と胴体の間に切れ目があることからも分かるように,分かれておりまして,別の場所から出土したとか。しかも,どうも人為的に切断されたっぽいとのこと。なんと。これは興味深い。造形だけでも十二分に興味深いのにその後の取り扱いまでも謎とは。素晴らしい。
 なお,ここには土偶だけでなく岩偶もありました。たしかに考えてみれば石に人間?の姿を掘って土偶的な存在にするってのは当然おこなわれていてもおかしくないよな。

大型板状土偶 土偶。どれこれも板状であります 岩偶
左の2つはよく岩偶だと
認定できたな…

 その他小物大物などもたくさんありました。骨を使って作られたものはウサギとムササビの骨が多いとのことです。なるほど。このテの骨で作ったものはたくさん見てきた(本とかのレベルだけど)けれども,何の骨かってのはあまり考えたことがなかったな。さすがに人骨で作ったりはしてなかったようであります。
 それにしても,写真撮影OKだからって舐めてかかるとさくっと重要文化財が登場してびっくりさせられます。

鹿角 ツル製腕輪と5本組紐 異形石器 石と骨 縄文土器 人物画土器

 てことで,せっかくのガイドをふいにしたところでガイドツアーが終わり,入って右側のコーナーへ。なお,ガイドさんはトウホクビジンさんでした(馬面という意味ではない)。
 そして,外を見終えたあとに縄文ポシェットを見逃したのではないかと思って戻ってきました。残念ながらこの日は展示されてなかったようです。



やはり黒曜石への思い入れはあるのであります 土器が並んでおります 漆塗土器 子供のお墓だとのこと

 てことで,外に出ます。手持ち時間は長くないのでさくさくいかねばなりません。
 ここは観光客にやさしい施設なので,基本的に一筆書きで全体をみていくことができるようになっております。てことで,逆らわずにみていきます。なお,時間がない人向けに間引きしたルートというのもあったのですが,こういうところで欲張って全部見ようとするのは昔からの悪い癖であります……。
 てことで,ルートは推奨通り【時遊トンネル →  環状配石墓 →  南盛土 →  復元住居 →  復元掘立柱建物 →  大人の墓 →  北の谷 →  北盛土 →  子どもの墓 →  大型掘立柱建物跡 →  大型掘立柱建物(復元) →  復元大型住居】となります。
 まあ最初の時遊トンネルはどうでもいいとして,環状配石墓って見られる状態にあったんですかね?案内板しか見つからず。時間がないので探索はせずに先に行きます。

案内 環状配石墓の案内 この道を行く

 最初の見所は南盛土。いろいろと捨てられた結果盛土になったとのことで,土塁的発想を持って見ると痛い目に遭います。
 建物内では,断面を横から眺める形になっております。なんというか,遠目に施設を見るともともとどうなってたのかがさっぱり分からないのが気になりますが(なにか分かってるのであれば当時の再現図かなにかを見せてもらえると嬉しかった),発掘と展示のバランスを考えるとこれは仕方ない。こういう形でも展示したのは関係者の尽力あってのことかと思う次第。


 続いて,竪穴住居。このテのはあちこちにあってこれまでにもいくつか見ております。登呂遺跡とか吉野ヶ里とか。とか,とか書いたけれど,ここを訪問した時点でほかになにがあったか思い出せない(その後釧路を訪問)。なお,思わず「竪穴式住居」と打ってしまって慌てて「竪穴住居」に修正したのですが,Wikipediaには特に違いは示されておりませんでした。実際に穴を掘ったのが竪穴住居,外観は似てるけど穴を掘ってないのが竪穴式住居とか予想したのに,どうも違うようです。と思ったら,Yahoo知恵袋になんか説得力のある回答発見。さしあたりこれを信じて満足することにします。なお,これを書いている2016年1月時点で,Wikipediaには登呂遺跡で見た記憶の無い登呂遺跡の写真が載っており,これは静岡競輪を見に行くついでに再訪しなきゃいけないなと思った次第であります。
 それはさておき,ここに復元展示されている竪穴住居は3種類。茅葺住居・土葺住居・樹皮葺住居です。茅葺はまあよく見るやつなのでいいとして,残り2つです。土葺と樹皮葺。これまで特に竪穴住居に興味を持ってなかったのでその材質とか気にしたことがなかったのですが,土葺と樹皮葺ってほぼほぼ見覚えがない。登呂分のデータがぶっ飛んでるので登呂は泣くとして,吉野ヶ里についてはちょっと見直してみる価値がありそうだ。
 なんとなく土葺きは雨漏りしないかわりに湿気が凄そうに思えますが,実際に住んでみるとどんな感じだったんですかね。青森だと雪の重みがくるから土葺きとかなかなかに危なっかしい気もします。また,同じ茅葺の竪穴住居でも入口のつくりかたに違いがあるようです。これはなにか根拠があって復元しているのか,それともありうるものを実験的に作ってみたのか。いずれにしても,竪穴住居は思っていた以上に奥が深い。なんとなくいろいろな学者間で対立とかもありそうだな。

竪穴住居群 案内板 土葺 入口 内部
中の木と藁の枠組みはかなりかっちりしております 樹皮葺き 内部。結構隙間が見えるので雨とかに対応できるのでしょうか
手前と奥に2種類の茅葺竪穴住居 このタイプのてっぺんで
草を生やしてますが,
どういう意図があるのかな
内部
これは天井部の柱が低い。そのぶんかなりがっちりしております

 とまあ,あらたに竪穴住居の魅力を感じたところで,次。大型竪穴住居跡はまさに跡であります。これに関してはもう研究頑張ってという以上の感想を抱けない。
 そして,大人の墓跡。道路を挟んで向かい合うように並んでいたとのことです。道路脇という生活圏の近くにお墓をおいていたのは非常に興味深い。生活道路だったのかどうかは知らんけど。


 そして,存在感のある掘立柱建物。地面に痕跡がないために高床だったと推測されているとか。なるほど。
 ここの建物も屋根の形が異なっておりまして,これもまたなにか根拠があるのか可能性を探っているのか,気になるところであります。
 なお,Wikipediaによると,2001年に放火事件があったとのこと。なにゆえこんな場所に放火するのか……そして,放火事件がありつつも,ここまで接近させてもらえるんだからありがたい。


 そして,見るのにあまり時間がかからなくて助かる遺構が続きます。何かを見落としていても気にしない。北の谷,北盛土,子供の墓,大型掘立柱建物遺構であります。
 北の谷に関してはなにかを見間違えてる可能性もあります。まあいいや。それにしても,この時代の子供のお墓のつくりかた,土器との関連や大人の墓と区別してることも含め,いろいろ興味深いですな。
 そして,大型掘立柱建物遺構。建物は遠くからでも目立ってましたが,推定復元で遺構を壊さないために別の場所に建てられているものでした。まあ,実際の姿がいかようであったかはまだまだ議論の余地があるんだろうと思いますが(どこかで絵が見つからない限り収束することはあり得ない議論だろうし),とりあえず目立つものを作るという発想は個人的には嫌いではない。それにしても,こんなでかい柱を立ててたとしたら,実際問題どうやってやったのだろうか……。


なぜ屋内なのに
水が溜まってるのだろう

 そして最後に復元大型住居。いやほんと,よくぞこんなもん作りましたね,としかいいようがない。なんでこれが崩れないのか意味が分からん。雪にも耐えたんだろうしなあ。

遠くから
白いドームが気になるといえば
気になるけれど
個人的にはまあOKかと
近寄って
案内板に今気付いた
内部 いろりの跡 木組み
よくもまあこんなものを

 そんなわけで,厳密にはこのあと,上述の通り縄文ポシェットを見落としてないか確認しにミュージアムを再訪したわけですが,まあそれは脇に置いておく。
 ちなみに,後日談にはなりますが,縄文ポシェットはこの数年後,東博で縄文展がおこなわれたときに見ることができました。ありがたや。

さらば!

 このあと,青森市内に入って職場関係の場所に寄りつつ,時間があったら善知鳥神社にも寄りたかったのだけれども時間がなくこれは断念。まあ結果的に断念して正解だった。善知鳥神社はなかなか縁がないな…。
 で,慌ただしく車を返して,返しながらもあっさりと青森駅前の場外車券売り場を発見してしまい,発見したものの時間がなくて外観だけ眺めておわり。
 で,駅についてバス停を見つけ,見つけたところバスの時間を勘違いしていたことが発覚したので,駅のラーメン屋でほたて塩ラーメンという,明らかに当地名物ではないであろうけれども当地のものを使ってるっぽい(ほたてって青森でとれるんでしょうか)ものを食しました。

場外車券売り場ってWINSみたいな統一感がないですよね ラーメン

 そんなわけで,バスで七戸へ。

七戸城へ

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