ラオノミュゼ

 ツアーが終わりまして,時間はおおよそ14時30分。Old Capitalに行く時間が合ったのでは無いか,という疑念は晴れませんが,空は晴れております。うまくもなんともありません。
 さすがに,忙しい日本の旅行者はこの時間から喫茶店にこもって読書,とはいきません(もっと快適な喫茶店が多かったら行動が変わっていた可能性があることは否定しない)。目をつけていた博物館,そして先ほど車内から見て気になっていたどでかい建物を見つつ,初詣に行くことにします。なお,このとき,昨日托鉢を見たあとにWat Tat Luangに入って初詣を済ませていたことは完全に記憶からぶっ飛んでおりました。

 そんなわけで,暑い中歩きます。1月2日ですが,店は基本的にフルオープン。人通りは少ないです。これは単に暑いからなのかもしれない。結局のところ,観光業の他にこの町の産業はなんなんでしょうかね?
 あと,あとからみたらGoogle Mapに「デパート」と表示されている店があったりして,もうちょっと動き回れたなー,と思ったりもします。まあ,暑かったし,時間もなかった(博物館が閉まっちゃったら元も子もない)ので,仕方がない。

大通りを歩く 雑貨屋。詰め合わせが飾られていた。 合弁銀行に分類されている
ラオベト銀行
名前の通り,ベトナムとの
合弁だと思われます
印刷屋さん
COPYではなくCOPPYなのが
かわいい
交差点にあった大きめのホテル
これでも3つ星で,
ネットの評価はそんなによくない
南へと進みます
影がないので暑い
ガソリンスタンド
閉鎖してるのかな?
さらに進みます
暑い・・・
振り返ってみた 服屋さん
床屋さん
アップにすると,いろいろな写真が飾られてるのが分かる
果物屋さん Post and Telecommunication
Department of Xieng Khouang
ラオス国旗と共産党旗

 暑かったけれど,まあ無事博物館に到着しました。ちなみに,帽子かぶってマスクするというそれなりに怪しい人間だったんですが(この数ヶ月後に発生するコロナ問題の先取りだったわけです……),警察に職質されることもありませんでした。

博物館に到着! どなたかは分からんのですが,
1909−1994+Laosで検索したところ
プーミ・ウォンウィチットさんなのではないかと
思われます
博物館外観
屋根のかたちが千鳥破風っぽくて,
どことなく日本の城郭建築を思い出します
横から見た姿
(あとで撮った)
営業時間
月曜はCloseで
9時〜4時であります

 中は写真OKなようなので,安心してパチパチやります。まずは,第2インドシナ戦争の武器から。
 午前中からそうなんですが,ジャール平原を見に来た平和ぼけ日本人を出迎えるのが,当地に残った戦争の話なのでありますよ。


 さて,このあとなんですが,大きなホールに様々な展示があります。文化的なものもあれば,もちろん戦争的なものもあり,そしてジャール平原ものもあります。このへん,正式な順序もないようで,あまりこなれてない感があります。まあ自分もあまり意識せずに見て回っちゃったんだけど。

 てことで,まずは文化的なもの。仏教なんかにも触れられています。仏教国なんだからある意味当然ですな。思ったより展示品が少ないのは,戦争で諸々破壊されたからなんでしょうかね……。

ラオスとシェンクワンの仏教 小さい仏像と,仏像制作のための粘土の型 ダルマの輪 仏教の行いについて Muang Phuan

 続いて,ジャール平原について。

未解明の謎について
葬儀の目的に使われていたのは争いがないが,
具体的にどのように使われていたのかは意見が一致しない様子
謎解きのための技術 2016年の調査から,平面図
石灰岩の石板
これの下に骨があった,とのことのようです
2016年調査時の断面図 マデレーン・コラーニさんが1935年に調査した際の記録 1935年のサイト1
人工物について
どうやってJarを運んだかは
いまだ謎らしい
セラミックのJar
ぱっと見,恐竜のタマゴみたいですね
シェンクワン高原の巨大な石壺

 そんなわけで,ジャール平原についてのお勉強を済ませたところで,続いてもうちょっと歴史的な話になります。
 シェンクワーン王国については,日本語のWikipediaはあるものの,なんかイマイチ分かりづらい。これは,東南アジアの歴史が全体的に分かってないせいだな。Wikipediaさんは,英語版は充実しているが,フラ語版はえらくあっさりしておりますね。
 1828年のLao Rebellionについては,英語版Wikipediaが詳しい。一体誰が書いたんだ,これ。

 他方で,全般的に登場人物があまりヒットしません。
 日本についての説明は1枚のみ。しかも,日本の統治よりもVang Paoという二重スパイとして活躍した青年の話がメインです。まあ,現地の人の活躍を示すのは重要なことですね。この人はフランス軍のマキ(Wikipediaではヨーロッパの抵抗運動についてしか書かれていない英語版ではMeo Maquisが著名なマキの1つとして挙がっていますが,独立した項目は無し)と日本軍の両方を手玉に取っていたようです。そして,のちにRoyal Lao Armyの将校としてパテートラオを相手に戦ったとのこと。日本については,植民地支配からの独立を助けた,という表現になっているので,好意的に書かれていると理解していいのではないかと。まあ,フランスが圧倒的に悪者ですからね。
 で,インドシナ戦争とラオス内戦です。Wikipediaだと双方損害が不明となっているあたり,闇が深いですね。

シェンクワン高原をまたぐ貿易
馬は,象やラクダが進むことのできない
険しい山道や細い竹橋を進むことができたので
重宝されていたようであります
雲南省からの旅行者 19世紀のシェンクワーン王国 山賊がタットファウンから
略奪していったようです
Anouvong王子について
英語版Wikipediaのみ発見
Prince Noyは簡潔です
19世紀の混乱 フランスの植民地に 1945年のラオス北部の地図 フランス政府がAlfred Delineauさんにラオスでの
ビジネスの権限を与えたようです。
検索してもあまり大々的にヒットしない人ですが……
で,発行された社債がこれですね
フランス支配 日本についての説明
これだけですが
まあ好意的な部類かと
第1次インドシナ戦争 第2次インドシナ戦争・ラオス内戦
1969年の写真 クラスター爆弾 戦争の中心地となった
シェンクワン
女性と戦争 爆撃下の生活
各所での悲劇 愛国心の目覚め

 ここで歴史は一旦終了です。独立万歳!的な展示がなかったな。撮り忘れただけだとも思えないので,本当に無かったのだと思われます。なんでだろ。
 普通に考えたらインドシナ戦争の終結〜内戦勝利でいざ社会主義!てな具合に社会主義万歳万歳となりそうなもんだけど。

 まあ,それはそれとして,文化的な展示に移ります。

文化的な多様性 蚊帳
布地 儀式用の布
抱っこ用の服 赤ちゃんの帽子
モン族の女性の儀式用の服 モン族の男性の普段着 モン族の女性の儀式用の服 伝統的なモン族の家
様々な道具 モン族の新年
儀式用の木 音楽 楽器
宝石 Tai Phuanの男女の儀式用の服

 そんなわけで,展示を見終えました。一応,博物館らしく売店もついておりましたが,何も買わずに退散。さっきスプーンビレッジで見たような商品も売られておりました。25,000キップ。さっきは10,000キップだったので,やっぱりここで買った方が高いです。

売店の様子 さっき見た

 では,博物館に別れを告げて,また太陽の下を歩きます。

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