過ぎたる佐和山

今回の自転車
 日が変わって朝です。

 彦根でお城めぐりというと,彦根城が筆頭に上がり,次いで佐和山城と佐和山遊園が並び立つのではないかと思います。
 初めて彦根に行く身として,どっちを優先するかは非常に悩ましい問題なのですが,やはり進むべきは王道。いや,王道だとしてどっちなのよ,という疑問もあるところですが,ここはやはり歴史に敬意を表して普通の佐和山城に向かうことにしました。問題なのは山城である佐和山城にスーツとビジネスシューズで登城可能なのか,という問題です。まあ,いざとなったらすぐに引き返す覚悟は出来てます。これ,思うのですが,一度「引き返し経験」を積むと(しかもそれが正解だと分かると)その後の引き返しに対するためらいが減っていいですね。

 そんなわけで,自転車を借りていざ佐和山城。「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」とも歌われた,あの佐和山城です。世間的にあまりにも有名になった彦根城よりも,こういう山城にワクワクしてしまう,急造お城マニアなのであります。
 佐和山城への王道登山道は龍潭寺からのハイキングコースを進む裏道。気合いの入ったお城マニアは大手門からの道無き道を突き進むようです。急造お城マニア,しかもスーツですから,ここは龍潭寺ルート一択です。

 彦根駅から佐和山城に向かう道は佐和山通りと名付けられておりました。よく分かってませんが,佐和山城があった山が「佐和山」っていう山ってことでいいんですよね?
 途中,ちょっとした運動公園にちょっとしたお城の模型がありました。どう考えても佐和山城を模してないので,「模型」という表現がいいのかどうかは分かりません。また山の中腹に「佐和山城」という看板が見えます。記念撮影用なのか?

佐和山通り どれが300mなのか分からない 多分手前のおじさんが
石田三成です
一夜城 案外新しかった 一夜城越しに佐和山城趾 中腹に佐和山城の看板

 さらに進むと,龍潭寺前にちょっとした駐車場スペース。佐和山城への登城ルートであります。
 ここの看板に佐和山城の解説がありました。

ハイキングコース ハイキングの注意 看板 解説 遺構概要
龍潭寺は右上
完全に裏ルートだな

 そして,びっくりしたのが人の数。どうせほとんど人なんていないだろう,と舐めてかかっていたところ,ハイキング部隊がいたり,これまたハイキング姿のご家族がおられたりと,結構な数の人がいました。
 そんななかにスーツのアホです。どこで,「そこの若造,そんな格好で山を登る気か,山をなめるな」と注意されないか,びくびくしながらの出発です。まあ,とりあえずは「お寺を見に来たんです」という雰囲気を出しながら入山。途中からは「あくまで墓参りですよ」という雰囲気を出しながら(多分出てなかっただろうけど)進みます。

龍潭寺の解説
浜松龍潭寺にちなんでいるようです
登山コース 石田三成群霊供養 佐和山観音 三成像 解説 招魂碑
山門 凝ってます 格子
手裏剣みたい
城趾への行き方 綺麗な苔庭 地蔵堂 仏足石
七福神 大洞観音堂 観音堂の脇を進む お墓の中を進む このあたりは無縁仏? 会わずに済みました

 さて,いいかげんいいわけがきかなくなってまいりましたが,特段注意を受ける雰囲気でもないので進みます。
 とりあえず,過去スーツで歩いた山城としては,奈良高取城道中の五百羅漢像近辺が最悪で,それに比べたら特段問題なし。少なくとも晴れた昼間に歩く分には全く問題ありませんでした。
 煙硝櫓付近でまったりと曲輪を眺めていたら,ハイキング部隊に追い抜かれました。やはりお城めぐりではなく純粋にハイキング目的の方々のようです。

こんな道 煙硝櫓跡。櫓台の跡すらまったく分からず。解説板はなし。何も分かってないんだろうな
発掘作業に予算はついているのだろうか
見下ろす さらに進む 道標 現在地 解説板 堀切
西の丸北西尾根……よく分からず 西の丸跡。竹林があるのはいかにも城跡っていう感じですが……

 さて,西の丸でさっき抜いていったハイカーの皆様が解説板まわりでゆっくりされていて(多分先行組と後行組の調整),本来は先にやり過ごしたかったのですが,結局自分が先に行ってしまいました。そんなわけで竹林写真なんかは帰りのものを使っているのでした。
 そんなことはさておき,しばらくすると本丸です。結局,特にスーツでも問題はありませんでした。ただ,裾は汚れますが……。

 本丸にもなにも遺構らしきものはなし。まさに,兵どもが夢の跡(武士の夢佐和山,という看板あり。写真撮ったけど黒い看板だったので馬鹿NPの姿が丸写しになっていた…)。ここに城を与えられていた石田氏の面影はまったくないのでありました。

 で,しばらくすると,先ほど西の丸で追い抜いたハイキング部隊が本丸に到着。
 記念撮影をしたり,景色について語ったりと,まさしく清く正しく美しいハイキングを実践されておられました。一人者としては肩身が狭いです。
 で,そのとき,ハイカーの皆様の中で口々に出ていたのが「伊吹山」。「あれが伊吹山か〜」「おぉ〜」てな具合です。県外者NPとしては,滋賀県の山岳愛好家の皆様にとって伊吹山というのが一体どのレベルの山なのか,高尾山なのか御嶽山なのか,それとも近江富士という異名があるのか,さっぱり分からんのでありました。
 いま即興で調べて見たところ,イブキマイカグラで有名な有限会社伊吹というのは滋賀県の会社のようで,社長さんは川尻さんという伊吹とは無関係な名字であることからして,おそらく伊吹山の伊吹をとって有限会社伊吹と名付けたのではないかと思われます。なるほど,それだけ地元の方々にとって大事な山なんだな。
 ただ,個人的には伊吹山よりもその手前にある場違いな人工物が気になったのでした。多分焼却場か何かだと思いますが,よく分かりません。……と思って調べて見たら,どうもフジテックのエレベーター試験用の塔のようです。なんと!これは凄い。

 で,なんとなく大きめの石(岩)を見ると,「もしかして佐和山城の遺物か!?」などと興奮して写真を撮ってしまったりしたのですが,あとで出てくる石垣跡はこんなちゃちな石とは比べものにならない立派なものでして,おそらく関係がないのだろうと思われます。

史跡略図
何年前に作られた看板だろうか
龍潭寺ではなく清涼寺の
境内なのね
城趾碑
ぽつんとあるのがなんとも
解説 供養地蔵尊 仏さまが見てござる
彦根城が見える 彦根城方向
やはり琵琶湖は広い
みなさんこっちを見て
「伊吹山」の文字を出しておられました
なんだこれ とりあえず撮ってみた石

 そんなわけで,「南口降り口」という矢印にそって降りていきます。降りるってことはまた登るってことなんだよな……

 少し進むと,石垣跡への矢印。これに従っていくと,見えてきました石垣遺構。ああ,これはさっきの石とは比べものにならないな。確かに見るからに石垣遺構だ。
 それにしても,佐和山城はこんな立派な石垣群から成り立っていたんだとして,それをすべて破壊してこんななにもない山にした,井伊氏や徳川の労力も並大抵じゃなかっただろうなあ。
 現在の石垣遺構は土に埋もれてますが,これ,多分掘り返したんですよね?この土の中がどうなってるのか気になってしまいます。ほかにもこういう石垣が眠ってるのでしょうか……。あと,根本的な疑問として,山城の石垣っていうのは山の斜面に石を並べるんでしょうか。石垣って外側の石の組み方・積み方はわりとよく見ますが,内部をどうやって支えているかはあまり考えたことがなかったな。特に内部が倉庫なんかになってる城はどうやって石垣を支えてたのだろうか。

逆側の景色 石垣へ誘う うっすらと見えてくる 正面から 土に埋もれてるな…

 さて,もう1つ見所があります。それは千貫井戸。まあ,お城,特に山城といったら井戸とは切っても切り離せない関係にあります。
 社の左の石碑に何と書かれているのか調べたところ,どうも「紫鱗龍王」らしいです(現地では気にしなかった)。ううむ,初めてきく名前だ。

千貫井戸と石垣 スーツだとちょっとためらう下り坂 千貫井戸 井戸というよりも池だな きけん 底なしだったりしたら怖いな
期待ほど綺麗な水ではない 井戸の横には社と石碑 社の中 いくつかの石仏
やっぱり豊臣は日蓮系と
つながりが深いのかな
仏さまがみてござるなら
倒れた卒塔婆をなんとかしたほうが…

 で,再び本丸に戻ると……さっきまでと天気が一変。雪です。
 山に関しては素人なので,これをもって「山の天気は変わりやすい」という言葉を発していいのか分かりません(たぶん佐和山城って標高的にはたかがしれてるし)。ですが,とりあえずスーツなので路面が悪化すると大変です。あまり長居はせずに帰ることにしました。
 それにしても,4月にして雪に遭うとは……。さらに,数週間後,4月末の福島では暑くてへばってたわけで,ほんと訳が分かりません。

本丸。夢の跡です
人がいないと寂しいな
夢の跡に咲く花 道。整備されててスーツでもOK

 行きはハイカーの皆様がとても多くてびっくりしたのですが,帰りは2組としかすれ違いませんでした。やっぱり遅い時間に出発するハイカーはいないんだろうな。ハイキング(登山)は楽しそうだけれど,夜行性のNPとは相容れない趣味だ……。
 そんなわけで,無事龍潭寺に復帰。復帰時に天気がどうなってたか全く記憶も記録もありませんが,特に辛かった思い出もないので問題なかったのでしょう。

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