2度目の福井

 2日目。今日はとりあえず自転車を借りて市内をさささっと巡って,最後は競輪場でしめくくる予定でありました。

 が,ホテルを出て衝撃。雨です。雨です。しかも,結構強く降ってます。うぬぬ。これは予定外。予想外。想定の範囲外。

 仕方がないので,ホテルの近くにある柴田神社に数年ぶりに参拝。そしてミスドで朝食とりつつどうするか考えます。結果として,とりあえず福井城のなにかがあることを期待して福井市の歴史博物館に行って,その後のことはその後考えよう(とりあえず12時に柴田史料館につけばいいわけで,あとは競輪に向かえばよい)ということに内定。
 てなわけで,まずは歴史博物館への道のりをチェック。雨じゃなかったら気持ちよく自転車で行ったんですが,雨なので歩いて行くのも憂鬱。てことで,バスを探します……が,福井ってバス停が不親切ですね。なんというか,目的のバス停を探して次の発車時間がいつかを導くのが大変です。少なくとも,旅行者にはかなりハードルが高い。
 そして,いろいろ調べた結果,バスは出たばかりで次まで1時間弱時間があるっぽいことが判明。やむなく,近くにいたタクシーへ。

 で,タクシーのおっちゃんに「歴史博物館」と伝えたところ,なにか返ってきましたが,悪い癖で「はい」と答えてしまいました。これが大失敗。見事,県立歴史博物館に到着いたしました。まさか至近距離に県立と市立があったとは。
 改めて地図等を見てみると,運転手さんは「二宮の?」という質問をしたんだと思われます。そんな地元の地名で聞かれても困りますがな。いやもちろん何も考えずにとりあえず「はい」と答えた自分が一番悪いんだけれど。もしかして地元民だと思われたのだろうか。それにしては,「福井はバスが少ないからねー」ってな会話もあったんだがな。よく分からん。
 合わせて,この運転手さん,「今日は競輪で記念の大きなレースがあるから,みんなそっちのバスに向かっていく」という,とんでもない話題を振ってきました。おいおい,これから今日の脇本について語ればいいのか。と思ったら,運転手さんは「競輪をやらないからよく分からない」とのことです。てことは,競輪をやらないタクシードライバーが日常会話として競輪の話題を振るくらい,福井では競輪が広まっているのでしょうか。とてもそうは思えなかったんだけど……。

 そんなわけで,ひょんなことから訪問することになった県立歴史博物館。雨だからか,記念競輪開催中だからか,日曜なのに客がおりません。係員の方が多そうです。
 入場料の安さと客の少なさ,あれ,競輪場を思い浮かべますね。

 さて,展示として興味深かったのは,「青石」という石の綺麗さ。これはなかなか。あまり石業界には詳しくないんですが,この越前青石ってのは有名なのかな。どれくらいとれて,どれくらい加工しやすいんだろうか。とりあえず,地学の勉強をもう一回してみたい。受験前のまとめノートどこやったかな……。今からでも発掘してPDF化しておきたい。
 あわせて,やはりウマがらみの展示に目が行ってしまうので,気になったのが「馬威し」というお祭り。城外に向けて,乗馬した武士が通りを駆け抜けるのを,隻手と呼ばれる町人や農民が,馬を威かして妨害する,という,なんか面白いんだか面白くないんだかよく分からないお祭りです。今年は午年なので市立の方の歴史博物館(今更だけれど,市立は「郷土歴史博物館」というのか。「郷土博物館」と言えば間違いがなかったっぽいな)で新年に特別展をやっていたようです。県立の方に展示されていた馬威図屏風は復元で,現物がどこにあるのか気になってたんですが,なんとなく,市立の方にあるんじゃないかと思った次第。とりあえず,将来の自分のために中スポの「教えて県民くん」の記事にリンクを貼っておくことにしますが,中スポはちゃんと残しておいてくれるのでしょうか。

久しぶりの柴田神社と三姉妹神社 歴史博物館

 さて,まあ,いずれにしても雨なので養浩館庭園は再訪しないといかんな,と思っておりましたし,また,一乗谷の山城も是非訪れたい。とすると,まあ新幹線ができた頃にもう一回福井に行くこともあろうかなというわけで,いろいろ次回のお楽しみとしておきたいと思います。


 で。問題は,どうやって帰るかです。例によってバスは時間が合わない。タクシーを呼んでもいいんですが,お金も勿体ない。なにより,外に出たら雨がやんでました(正確には,ちょっと小降りだったりやんだりという感じ)。よって,近くの田原町という電停まで歩くことにしました。
 田原町電停は,福井の路面電車とえちぜん鉄道が交わる駅で,路面電車の起点ですね。路面電車は福井鉄道という立派な名前がついており,なんというか,部外者の語感的に,福井鉄道とえちぜん鉄道が逆じゃないかという気も。余計なお世話か。このあたりで一番強い私鉄はどっちなのかな。とりあえず,東京に向けて夜行バスを走らせているのは京福バスで,どうも京都系の私鉄みたいですね。

 ごたくはさておき,この田原町駅,絶賛工事中で,なかなか面白いことになってました。たびたび書いてますが,僕は電車の線路が描く曲線が好きなので,なんともいえないレールの雰囲気を見てちょっと嬉しかったり。

えちぜん鉄道の駅
ちょっとぼろい
福井鉄道
ホームには屋根はない
美しい線路
別に独立した待合室があります ホーム
コンクリが新しい
田原町 車内
連結部の形が独創的


 福井鉄道はなかなか面白い走り方をする路面電車で,本線から福井駅に向かい,さらに本線に戻る際には運転手さんが後部に歩いて移動して,逆方向に走ります。そして,逆方向に走ったらそのままその向きに進むのかと思いきや,いったん市役所前駅に戻り,再度逆方向に進みます。文章にするとなんのことだかさっぱり分かりませんね。GoogleMap上,あやしげなレールの書かれ方をしてたので気になってはいたんですが,乗ってみて面倒な動き方をするのがよく分かりました。これ,線路を広く取れない以上仕方がないのでしょうが,無駄に時間かかるし不便ですね。まあ,路面電車があるだけマシってことかな。福井市の皆様的には路面電車の使い勝手はどうなんでしょうかね?

 そんなこんなで,公園口電停で降りて柴田史料館のある西光寺へ。
 ぎりぎり12時に間に合ったかな,という時間。で,保育園脇の家のインターホンを押してくれというホームページの案内に従って押してみましたが……反応無し。あれれ。
 まあ,昨日よく分からない流れで急にお願いした話なので,どこかに行き違いか勘違いがあったのかもな。まあ仕方ない。これも次回のお楽しみとしてとっておきたいと思います。なんか次回のお楽しみが増えすぎて次回にも全部まわりきれないんじゃないかと思いつつありますが。
 てことで,柴田勝家のお墓に手を合わせて,次へ向かいます。

公園口電停
ホームがとんでもなく狭いです
お年寄りとか大変そう
車いすとかどうするのかな?
西光寺へ 勝家の墓
里標 朝倉貞景寄進の鐘 その他,いろいろと

 続いて,近くにあって大きそうなのでとりあえず毛谷黒龍神社。こくりゅうではなく,くろたつと読むようです。なかなかに整備されていて,立派な神社でした。黒龍川というのは,九頭竜川のことのようですね。これは知らなかった。
 でもって,無駄に張り切って足羽山を登って足羽神社へ。丁度あじさいの見頃をちょっと過ぎたかな,という時期でありました。北信越であじさい,というと,2年前の弥彦を思い出しますね。
 で,この継体天皇を祀るという由緒正しき足羽神社から下に向かって降りていく道は,愛宕坂と呼ばれております。どうもこれもそこそこ観光名所扱いを受けているようです。で,どうも業界的には有名な方々の関連施設があるようなのですが,無学すぎる自分としてはとりあえずスルー。そんなわけで,ようやく公園通りに復帰しました。あとは競輪場までまっすぐです。




西宮恵比寿神社
毛谷黒龍神社
住宅地にあって,
なかなかイベントたくさん
 
ロータリーがなぜ2つ作ったのか不明
単に別の年に作っただけかもな
 
あじさい

店は元気に営業中
絶対閉まってると思ってた…

市民児童の労働奉仕が
あったようです
 
探偵という響きにあこがれてしまう

撒き塩は分かりますが,
甘茶撒きってなんだろう?

百坂

愛宕坂

 で,競輪場までまっすぐなのはいいんですが,さりとてそれなりに距離はあります。で,ちょうど近くにバス停があり,そこに競輪目当てっぽいおっさんがいました。ということは,もうすぐバスが来るということになります。てことで,バスを待って,バスに乗って競輪場に向かうことにしました。
 ちなみに,この久保町バス停は徳行寺というお寺の目の前にあります。このお寺がまたよく分からん形をしておりました。このかたち,なにか意味があるんだろうか,なかったらこんな形にしないか。

 ところで,中途半端な寺社マニアなNPでありますが,もう1つ有名神社を取り残しました。そう,藤島神社です。
 福井に行った7月中旬は,丁度太平記のDVDを見ている時期でして,まだ中盤,北条滅亡のころでした。
 で,この藤島神社が新田義貞を祭神とする神社であることはもちろん知ってたんですが,てっきり単に新田義貞を祭神としているだけで,場所的にはそこまでゆかりがあるとは思ってたなかったんですね。平泉寺白山神社に楠木公の墓塔があったみたいに。
 が,なんと,新田義貞って現実にここで亡くなったとされてるんですね。いやほんと知らなかった。これはホントに恥ずかしい。

 で。ある意味ここからが自分的に記録に残しておきたい(但し全世界に向ける必要があるかは甚だ疑問)ことなんですが,関東にいると,福井という場所の具体的な位置と意義がよく分かりません。知識として,「金ケ崎」「一乗谷」という地名はもちろん頭に入っておりますが,この若狭国・越前国の2国の具体的な国境がどこにあるかも正直分かってないですし,京都から越前に向かう際に琵琶湖の西を通るのと東を通るのと,どっちが歴史的に正解だったのか(どっちに大きな街道が走ってたのか)も分かってません。単に無学なだけかもしれんけど。
 福井という場所は,新田義貞が逃げ込んだり朝倉が一乗谷という大都市を作り上げたり柴田勝家が北の庄という巨大な城下町を築いたりといろいろ行われていたのは分かりますが,特に戦国から歴史に入った身としては,「朝倉が雪を理由に動かなかった」「勝家がたびたび雪に阻まれて動きたくても動けずに苦労して秀吉にやられた」という印象しかなく,不便な場所という認識しかありません。この土地の重要性がよく分からんのですね。
 若狭武田氏が(信長の野望的にも世間的にも)マイナーってのもよくないのかもしれないな。あ,あと一色氏が治めてたんだな。信長の野望史観だと一色も武田も「とりあえず気付いたら周囲に飲み込まれてる方々」なので全く印象に残らないんだよな……。
 前回福井に出たのは大阪出発でしたが,今回東京から福井に向かうにあたり,最短ルートが米原経由だと分かりました。あるいはサンダーバード使って京都に出るか。いずれにしても,近畿から非常に近い。この近さのイメージがよく分からん。あと,上にも書いた若狭と越前の関係もよく分からん。金ヶ崎が敦賀にあって,信長が浅井に裏切られたときの朝倉の防御線がこのあたりだった,というのはよく分かる。なのに,朝倉はなぜあえて山の中にこもってたのだろうか。まだ武田等々の残党が多くてこのあたりが安定してなかったからかな。大内もそうだけれど,あまり海辺に大きな町を作るっていう時代でもなかったのか。
 あと,敦賀や小浜が湊として重要だったのは間違いないところだと思うんだけれど,なぜか歴史の表舞台に出てこないですよね。なんでだろうか。日本海〜ロシア方面に限定されて波が高いからなのか。

 そんなわけで,まとまりのない文章ですが,ちょっと福井という場所について気になっている今日この頃なのでした。

勝山福井競輪


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