エチウノコジョウ

 さてさて、高岡大仏をあとにして、高岡古城公園に到着です。
 100名城の富山県代表はこの高岡城なんですが、遺構としては堀と石垣が有名です。正直なところ、100名城の中では比較的マイナーな部類、もっと言うと1県最低1城というルールに救済された感もあるのではないかと思います。
 続100名城に選ばれることになる増山城や、そこからも漏れた松倉城あたりのほうがマニア受け度は高い印象ですが、どうでしょうか。とはいえ、放っておいても各地を回るマニアのための制度じゃ無いですからね。

46 高岡古城

 てなわけで、駐春橋に到達です。特にこの出入り口に関する案内は無かったのですが、ホームページによると、「明治14年(1881)高岡地区裁判所の設置により、南外濠に駐春橋(通称太鼓橋)が開通しました。橋から大仏まで約200mあり徒歩4分で行けます。」とのことで、明治期につくられた出入り口のようですね。現在の裁判所は搦手側にありますが、かつてはこの公園内にあったのでしょうかね??

 そして、この駐春橋から、立派な南外濠の脇を歩いて、大手口へと向かいます。

駐春橋 橋から左、前、右を見る 濠といえば鴨! 濠の脇を進みます カミツキガメが
見つかったらしい

 大手口に到達しました。
 大手口なので、案内がしっかりしております。
 そして、ここに立つのが高山右近像。正直、かなり唐突です。これまで、ひたすらまえだまえだしてきたのに、急に右近さん。どうやら、前田利長の客将となって高岡城の縄張りを担当したようです。高山右近さんといえば、フィリピンに行ったときに彼の痕跡を探ろうとした記憶がありますな。
 てきとーに検索してみたところ、山元醸造さんのサイトの中に、「高岡城と高山右近」という思い入れのつまったページがヒットしました。
 ちなみに、富山市埋蔵文化財センターが運営する「『富山城研究』コーナー」というサイトには、「富山城から見た高岡城」というコーナーがあり、さらにその中に「高岡城の縄張りは高山右近がおこなったのか?」というページがあります。これによると、縄張りの特徴から見て、高山右近がおこなったとはいえないのではないか、というコメントが出されております。これは富山と高岡で戦争するしか無いですな。

 また、古い縄張り図をみると、さっき見た駐春橋が二の丸をぶち抜いて、明治以降になって新たに作られたものであることが分かりますね。


 石垣も気になるところですが、とりあえず公園内に滝が設置されていて、甦る水100選なるものに選ばれたようです。甦る水はどうでもいいのですが(再度死にかけてるし)、下に降りると水堀がしっかり見えて景色がよいです。後付けの駐春橋も、歴史的には問題があるとしても、風景としてはいいですね。ちなみに、ここは水だけで無く桜でも有名で、日本さくらの会選定の日本さくら名所百選にも選ばれているようです。この日本さくら名所百選は、百名城と同様に各県から最低1カ所を選出するという方式だったのですね。ただ、ホームページ上からは一覧性に乏しく(おそらく、日本全国の百選選定箇所を回ろうという発想の人間がいないためだと思われる)、Wikipediaも写真入りで見づらいので、早い話、NPはお呼びではなさそうです。


 そして、公園内にあるのが市立博物館。本来だったら高岡城の資料なんかも見られたのでしょうが、あいにくこの日は月曜なので休館です。
 ちなみに、ここで外国(多分中国)から来られた方とちょっと話をしました。何を話したかは忘れましたが。

大手口から鍛冶丸へ 外堀を横目に 市立博物館。建物が立派ですね 休館です スタンプ台は汚れてます 芸術の森記念碑ともう1つの碑

47 護国神社

 高岡古城公園の中には複数の神社がはいっていますが、そのうちの1つが護国神社です。城跡に護国神社、というのは一種のおきまりのような感じですね。明治期に場所を用意しやすかったのでしょう。

 道すがらの水堀の眺めはいまいちですが、往時の木や草の生え具合はどの程度だったのでしょうか。

水堀 参道の雰囲気が出てます 忠魂永存碑 護国神社
ここまで参拝に来た人にあえて「英霊に感謝しよう」という必要もない気もする
神馬

48 高岡城石垣

 高岡城の数少ない現存遺構が、二の丸と本丸を結ぶ土橋を保護する石垣です。今では、護国神社と射水神社を結ぶ役割を果たしております。
 石垣の石の刻印にはキリシタンと関係がある、という説もあるようですが、まあそもそも高山右近が関係しているという説自体に疑義が出てしまっているので、余計なことを考える必要は無く、普通にほかの城郭で見られる刻印以上の意味は無いのでしょう。

本丸へ向かう土橋 右手の水堀(西内堀) 左手の水堀
西外堀に繋がります
ちょっと埋まっちゃってますね
石垣解説
100名城指定とは縁の無い
時期に建てられたようです
降りていきます

 で、石垣です。
 土橋に設置されている石垣なので、扇の勾配のようなきれいなものではなく、ほぼ地面に垂直に立つ壁になっております。積み方は野面積みで、歴史と伝統を感じますね。水堀にどこまで水が埋まっていたのかは分からないのですが、もし水が満杯に埋まるレベルだったら刻印などは全部浸食されていたでしょうから、よかったよかった。

降りていく途中に石垣を見る さらに進んでいきます 堀の脇を歩けます
昔からこんな道があったのでしょうか?
彼岸花が咲いています
石垣です!! 近づきます 様々な刻印がありますね ヒビが入っております

 土橋を進んで、今度は向かって右手側の石垣を眺めます。こちら側の石垣は下に降りて見ることができない(正確には、見ることを想定されていない、というべきか)ので、上から眺めるのみです。


49 射水神社&高岡城本丸

 そして、射水神社。まず右手に相撲場があります。そのまわりを土塁が取り囲んでおりますが(裏手の山は卯辰山と呼ぶようなので、起点が本丸なのは事実でしょうが)、これは観客席用に(あるいは相撲場を設置するために整地したときに余った土を設置して)あとから土を積んだのか、それとも元々土塁としてあったのか……。ジオラマや古城の絵図などをみるかぎりは、このあたりは普通に塀があって櫓が立っていたようなので、土塁は無かったのかな?

高岡城相撲場へ 相撲場 それを取り囲むような土塁。相撲場ができてから作られたのか、それとも…

 で、神社に参拝。高岡城本丸にででんと鎮座する神社なので、大きいです。
 富山は伏木・新湊、そして富山市街には大規模な空襲があったようですが、高岡は大丈夫だったのでしょうかね?

鳥居 由緒 境内 平成27年に建てられた鳥居 拝殿

 そして、本丸広場へ。本丸広場まわりが、基本的に本丸御殿跡地、ということになるのでしょうかね。昭和22年にはここに野球場があったようなので、もしかしたらのび太君がジャイアンらと一緒に野球をしていたのはこの本丸広場なのかもしれません。
 さきほどの相撲場の卯辰山もそうでしたが、この本丸広場も、周囲を土塁のようなもので囲まれています。そして、北というか丑寅方向に、天守台跡があるという構造になります。
 本丸広場を眺めてもなにも面白くないので、とりあえず土塁跡?に登ってみます。

解説板 広場の様子
広場から射水神社方向
左右に土塁があるので
もしかしたら門でもあったかな
土塁から下を見下ろす
このあたりに門があっても不思議じゃ無い
土塁を進む 下はよく見えません 川上三六碑 逸見文九郎碑
土塁を進む 水堀側を見下ろす 広場に下りました 脇の道を進みます

 そして、登場するのは前田利長像です。銀鯰尾兜が目立ちます。というか、そっちが本体に思えます。銅像をつくった方も、銀鯰尾兜をいかにしっかりとつくるか、苦労されたのではないでしょうか。

前田利長公像 重さ2トンです このあたりから本丸広場を見る

 そして、本来ならば天守台跡であるところの記念碑側に上るべきなんでしょうが、残念ながら当時の自分はそれが天守台跡であるという知識が無く、完全にスルー。水堀に向かって降ります。このあたりは人が降りてくることが想定されておらず、草木もかなり伸びていて、本丸広場に比べると整備もいまいち。イマイチといっても、最低限の整備はされてはおります。
 この堀の脇の道、犬走り的に昔からあったのか、それともこれも後の世に公園の一部として作られたのか……。石垣を取り壊す手間もあったろうし、また石垣を壊すためには立つ場所があった方が便利だっただろうし、なんとなく公園化の一環としてこういうスペースができたのではないかという気がしますね。
 特徴的なかたちをした本丸橋のところまで向かいます。この本丸橋も、先ほどの古い図面には載っていないので、後世につくられたものでしょう。平時にはなにか人が通れるような簡易な橋が設置されていた可能性はあるのかもしれませんが。

ここからおりてきました 堀の脇を歩きます 石垣を剥ぎ取られた土塁? こんな道をさらに進みます 本丸橋(ここでUターン)

 で、水堀の脇を歩いて、天守台の下をぐる〜っと回ります。

こんな道を進みます 天守台の跡
…というにはあまりに
何も無いですね
堀が曲がる場所に近づく 水堀の様子
まあ、何があるわけでも無い
さらに進みます

 そして、さらにすすみます。
 中の島と、そこに立つ緑翠亭を眺めつつ、朝陽の滝、朝陽橋。
 いま朝陽橋が架けられている場所は、先ほどの城郭配置図では貫土橋となっています。土橋では無く、いつでも外せるように木の橋にしていたのでしょうかね。
 そして、中の島は図面にありません。これは後世、整地したときに余った土で作られたのかな??
 この朝陽の滝を越えたあたりに、すこし石が積み上げられた場所があるのですが、そもそもここが石垣の場所か怪しいことや、先ほどの土橋の石垣と積み方が異なることも含め、やはりこれも後世につくられたものかな?

進みます 中の島と緑翠亭 朝陽の滝と観音像 こんなところに石垣が
石垣を眺める 朝陽橋に接近 朝陽橋へ 朝陽橋から左側 右側

50 梅林〜三の丸

 続いて、馬出的な役割だったのか何なのか、梅林がある曲輪です。梅が咲いている季節に訪れたらさぞかし綺麗なのでしょうが、残念ながら季節は秋。特になにもありません。

朝陽橋から正面 本丸側を振り返る 梅林から朝陽橋を見る
ぐるっと梅林を見回す

 そして、三の丸方向に歩いて、民部の井戸です。民部というのはここにあった加賀藩家老、今枝民部の屋敷が会ったことに由来する名前のようです。ホームページ上には「今枝民部」としかないので、いったいどの今枝民部の時代に作られ、どの今枝民部の民部がこれなのかは分かりませんが、まあ代々家老として務めてきた家柄ですから、誰っていうこともないのでしょう。
 なお、本丸にも井戸があったようですが、当然にごとく気付かずにスルーしております。


 三の丸から本丸方向を隔てる内堀は地図上撮影スポット扱いされていますので、私も唯々諾々と写真撮影してみました。


 三の丸も開発が進んでおり、スポーツセンターがあったり、SLの展示があったりします。とりあえず、広々とした平地があったので置けるものは置くスタンスであります。
 水上武さんの記念碑と記念植樹されたケヤキなんかもありましたが、写真は省略。恥ずかしながら、これまで存じ上げなかった方なのですが、浅間山に関する研究を始め、火山学者としてかなりの業績があるようですね。

三の丸の眺め〜搦手口へ 蒸気機関車 はばたきカリヨン「飛翔」

 一旦城を出るので、ページを分けます。


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