アワノイケダ

 無事、18時2分のバスはやってきました。来なかったらこのあとの予定が盛大に狂うところだったので、とりあえずは一安心。
 このバスはクロネコヤマトの荷物運搬車を兼ねているようです。確かに、バスを使うのは理にかなってますね。

時刻表 さらば道の駅 バス車内

13 三好橋

 バスに乗り、三好橋バス停で下車します。日が落ちかかっておりましたが、この静かな吉野川も見ていて心が落ち着きますね。ここは三縄駅が近くにあるようです。最悪、ここから帰ることも可能といえば可能です。

三好橋バス停 三好橋。人間が渡ることは想定されていません
守り神?がいました
単なる落とし物の可能性もありますが…
三好橋から吉野川を眺める 静かな水面
(静水面と書くと一気に競艇感が出てしまう)

 ここから白地城を目指すことになります。
 このあたりの街並みはかつては城下町として栄えた名残なのでしょうか……。白地城自体は長宗我部氏が秀吉軍に負けて撤退した際に廃城になったようですが。

このあたりの街並み
交通の要所感がありますね
派出所 左に登っていくことになります 石碑
「用地提供者芳名」
とあるので、新しめのものだと
思われます

14 白地城

 丘を登って、白地城に到着です。
 白地城は遺構としては特に注目すべき部分はないのですが(少なくとも私のようなニワカにとって)、この城の存在をしっかりと認識したのは、司馬遼太郎氏の「夏草の賦」を読んでからのことです。長宗我部氏が土佐から四国全体に向けて進軍し、四国を制圧するためのくさびの地となったのがこの白地城なのであります。
 吉野川はこのさき東に曲がり、吉野川沿いを進めば阿波国を制圧。北に行けば善通寺〜丸亀、西は伊予であります。当時の道路状況知らないけど。
 繰り返しますが、私がこの白地城を認知したのは司馬さんの本を読んでから。そして、本から知識を仕入れると読み方が頭に入らないので、今の今まで「はくちじょう」ではなく「しらちじょう」と読んでました。誰かに道を聞かなくてよかった。

 というわけで、簡単な山登り。高低差はたかがしれているので、そんなに疲れることもありません。

登ります この奥が白地城 四国トンネルじん肺の碑 碑文 トンネルじん肺根絶の碑

 あっさりと到着。元々はかんぽの宿、現在はホテルのあわの抄という施設になっているのですが、コロナの関係もあってか休業中。かなり寂しい状態になってました。誰もいないのでてっきり廃墟かと思ったら、今(2022年8月)はきちんと営業しているようです。

 事前情報として、城の解説板がどこかにあること、奥に進んで神社側に行くと城趾碑があること、は分かっておりました。というわけで、目的物がどこにあるかを探すことになります。
 意外となかなか見つからなかったのが城の案内板。石碑の方が最初に発見されました。まあ、見つかったところで下は草に覆われて日焼けもしており、ネットで見た方が見やすい、っていうオチが待ってるんだけど。
 そして、神社への道。これもなかなか分からず。てっきり遊歩道側から行くのかと思ったら、違いました。まさかデイサービスの施設の方向に向かうとは。私有地を突っ切るような気になって不審者感満載なのですが、大西神社に行くのである!と強い気持ちを持って突き進みました。

 大西神社、名前からしてかつて当地を統治していた大西覚養などの大西氏に関係しそうな気もするのですが、ぱっと見由緒書が発見できなかったので、ご祭神などは分かりません。

今回は時間が合わなかったけど、
バスも来ます
あわの抄
どのくらい破壊されているのかは分からないけれど、
おそらく本丸跡地なのでしょう
石碑
「梅と兵隊」という歌碑でした
軍用地だったのかもしれない
あわの抄の建物から右手には城壁を意識した壁が続いています
「遊歩道」という矢印も出ていましたが、道は手入れされていないので
進むのは困難な様子です
解説板。
「はくち」と読み仮名までふられているのに
今の今まで「しらち」だと思ってました
あらためてあわの抄 営業停止中 あとであらためてぐるっと見回した図
大西神社。社がある石垣は見るからに新しいのでいいとして、
その裏の崖がどの程度の古さなのか、
近代になってどの程度整地されたのかは分かりません
城趾碑 さらに奥の様子

 日が落ちてきました。
 白地城に別れを告げて、下に降ります。ここからが大勝負。近くにあるタクシー会社は果たしてあいているのか。
 ……
 あいてませんでした。

 元々は、ここでタクシーを拾えれば、ここから池田駅に直行して一本速い電車(特急剣山。特急なので三縄には止まらない)に乗れるだろうと期待しており、もしタクシーを捕まえられなければ池田城まで歩いて終電に乗る、というプランでした。まあ、ここで外すのはある意味想定の範囲内だったのでヨシとします。池田への道も国道沿いで、危なっかしさ無いしね。

白地城。右の写真は無理矢理明るさをいじってみた 三協タクシー白地営業所(看板は白地観光タクシー)
人の気配がありません

 というわけで、楽しく徒歩で池田へと向かいます。

15 大西池田城

 ここで、あらためて大西池田城についておさらい。Wikipediaでは大西城として項目がつくられております。
 Wikipediaをみても、イマイチ白地城との関係性が分からないのですが、同時代にそれぞれの城が存在していたことは間違いなさそうですので、白地城⇔大西城を行き来していた人もそれなりの数いたのではないでしょうか。

 写真を見直すと、三協タクシー前で写真を撮ったのが19時12分。セブンイレブン前到着が19時56分。池田高校が20時10分。池田城城趾碑が20時20分。ダラダラ歩いていたとはいえ、1時間で到達したことになります。往時はもちろん道路事情は今よりも悪かったでしょうが、私よりもよっぽどか健脚だったでしょうから、やはり1時間もあれば余裕で池田城と白地城とで連絡を取ることができていたことでしょう。このあたりの距離感を実感できたのはいいことです。ただ、歴史に埋もれすぎていてこれらの城の役割があまりはっきりしないのが残念。

池田大橋と吉野川
ここに来るときに三好橋から撮った写真が嘘のように
完全に真っ暗であります
池田大橋とその先へ さすが国道なだけあって
歩道もしっかり
夜道でも歩いていて
怖さはありません
セブン-イレブン
三好池田町ウエノ店
ここまでくれば
池田の市街地まであと少し

 今回、池田まで歩いてよかったこと。正確には、ちゃんと大西池田城に行ってよかったこと(タクシーに乗れてたら池田駅直行でした)。それは、大西池田城が高台の上にあることがしっかり認識できたことです。これは地図だけ見てても分からなかった。

 ちなみに、みんなが知ってる池田高校の前も通りました。ちょうど前日、某四国会にて、「当時修学旅行で池田高校を見に行った」「当時の人は甲子園をテレビで見ていたために池田高校の校歌をみんな歌えた」という話をしていたばかりでありまして、まさかその翌日に池田高校前を通ることになるとは思いませんでした。
 また、池田高校と言えば蔦監督。その蔦監督のお孫さんである蔦哲一朗さんは映画監督をされており、その蔦監督(映画監督の方)がかかわった渚のバイセコーという映画を、翌年鑑賞する機会があり、その際監督挨拶もありました。人間、色々なところでちょっとずつ繋がっているのであります。

 なお、大西池田城自体は白地城以上に遺構が残っていないことはこれまた事前調査済み。まあ、残っていたところで夜なのでどうしようもないんだけど。石垣遺構を撮影して終了です。
 繰り返しになりますが、高台に位置していることを認識できたのは収穫でした。

高台から市街地を見下ろす みんな大好き池田高校
池田区検。草ボーボーなので
機能をどこかに吸収されて営業中止してるかも
家裁・簡裁
区検や裁判所を撮ってる奴は完全に不審者ですね
学園通り 中学校前の用水路のようなもの。
一見かつての堀と関係ありそうにも思えますが、おそらくなにも関係がありません
城趾碑 ネコ 城址への案内 解説板 残された石垣

 そして、阿波池田駅へ。
 今朝、バスで乗り込んだ阿波池田駅に、今度は徒歩で乗り込むことになりました。商店街はなかなか味のある感じでしたが、昼に行くとどの程度店は開いているのでしょうかね??
 こんな時間に開いているはずも無い安宅屋のようかん、どこで買ったんだろうか。記憶に無いぞ。徳島駅かな?


 そして、無事駅から電車に乗り込むことができました。いやはや、タクシーに乗れなかったので長時間歩くことになりましたが、とにかくホテルに着けばこっちのものなのです。


 というわけで、おやすみなさい。
徳島2020

勝瑞城かずら橋大歩危・妖怪屋敷白地城・大西池田城脇町脇城


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